行く手を阻むように突然現れたそいつは、直前にも直後にも、こそりとも音も気配も立てなかった。時刻はいい加減闇も深い夜半少し前で、そいつの体のほとんどはその場に溶けこむように同化している。かろうじて浮かぶ、爛々と光る大きなふたつの瞳は、まるで何も映してはいないかのように、あるいはまっすぐに俺を睨むように、ただじっとこちらに向けられている。
 沈黙と、静寂。そいつの真上にあるはずの街灯も、まるで何かの演出であるかのように都合よく消えていた。
 つい先日まで降り続いた大雨のあと、一転して快晴の日が続いた街には色濃い暑気がこもっている。今夜はひどい熱帯夜だという。立秋も過ぎて、とうに月もまたいだというのに。
「…お前も、逃げてきたのか?」
 問いを口にして、思わず自嘲にも似た形に唇を歪めた。逃げてきた。そう、自分は逃げてきたのだ。(何から?)(誰から?)
 眠れないことを暑さのせいにして、わけのわからない焦燥を夜闇のせいにした。何かをうしなう気がした。だから逃げなければ、と、
「うしなうべきとき、ってのも、あるんだろうよ」
 眼前のふたつの瞳は俺を見ていない。多分何も見ていない。
 そういう風にありたかった。
 滅ぶべきときは、きっといつか来る。けれど、きっとそれより先に、うしなうべきときが訪れる。だから、逃げなければ。そう思った。そんな未来を映す夢なんて見たくなかった。
 つい、とこちらに向けられていた双眸がそらされる。真っ黒な毛並みを持つ猫は、現れたときと同じように、ひとつの音も気配も残さず闇に溶けた。






(九月の鳥)
the bird is not here→goodnight,my butterfly