いつか還る場所、失った日々。
追憶の刹那はあまりにも愛おしく。










 港の桟橋に立てば、無遠慮に髪を舞い上がらせる潮風と共に絶え間ない潮騒が耳を打った。
 先刻出港した船影が遥か水平線にうっすらと浮かび、遠くを見るように細く眇めた視界の端で一度、陽光が波間に鋭く光を映す。
 よく晴れた穏やかな午後。
 強風にばたばたと暴れる襟を軽く正し、ジェイドは水面から目を逸らすとそのまま自分の足元に視線を落とした。
 影は色濃く、けれど短い。
「海を見ていると、思い出します」
 波音に混じって届いたそんな声に、ジェイドは隣に立つティアにそっと視線をやる。
 けれどティアはそれに応えることもなくただじっと前を見据え、潮風に翻る長い髪を片手で押さえた。
 人影の薄れた港は閑散として、とても静かだ。
「海も空もとても青い。そう言われても、いつだって私は理解することが出来ませんでした」
 空の青とも海の青とも違う、けれど深く蒼い瞳を瞬かせてティアは言う。
 姿勢はそのままにジェイドはそっと瞼を下ろすと、黙ってティアの言葉に耳を傾ける。
 対極の色彩、紅い瞳。
 頭上高く、海鳥が鳴いた。
「私がまだ小さかった頃、兄さんが教えてくれました。海も空もまるで私の瞳のように青い。まるでこの世の全てを見通すように、透き通るように、青い」
 言いながらティアは髪を押さえるのとは逆の手を前に伸べ、何もない虚空で何かを掴む仕草をする。
「今も、私にはよくわからないんです」
 何が、あるいは、どうして。
 思わずいつもの調子で問い返しそうになり、すんでの所でジェイドは緩く首を横に振った。
 それを問うてどうするつもりか。
 否、どうすることも出来ないから、聞きたいのか。
 沈黙の間を波音が過ぎる。
 ジェイドはそっと目を開いた。
「過去は記憶です。ですから、その感傷は本人にしかわからない」
「……」
「例えば、共有したいと願ったところでそれが叶わないことも多い。ですがそれは極めて自然で…尊いことです」
「尊い…とは?」
 眼前の景色から視線を外し、ティアは窺うようにジェイドを見上げる。
 光の加減か、その瞳は普段よりも少し明るい蒼色。
 海や空とは似ても似つかない、とジェイドは思った。
「……大佐?」
「あァいえ、何でもありません。そうですね…答えを求める前にご自分で考えてみて下さい。あなたは、ちゃんと答えを持っているはずです」
 曖昧に言葉を濁し、ジェイドは先刻のティアのように片手を前へと伸べる。
 掴めるものなどありはしない。
 そんなことはちゃんとわかっているのに。
「いつか理解しなければならない日が来るのでしょうか」
「…ティア、」
「だって、あの日々は終わってしまった。もう二度と戻らない…大切な、愛おしい日々は」
 私を置いて。
 いつの間にか、この手をも離れて。










  抱えきれないほどの憤りを、ただ誰かのせいにすることなど出来ようはずもなく。
  飲み込んだ言葉の数だけ、零せなかった涙の数だけ。
  少しでもいい、強くなりたいと、


 (…………守れるものならば、)
 (…わかっては、いるのでしょうが……)


  ―――――願った。










「私にもありますよ」
「…大佐にも?」
「ええ。あなたの言う"愛おしい日々"に当たるのかはいささか疑問ですが、私にも、終わってしまった過去の一つや二つありますよ」
「……、…」
「誰しも持っています。共有出来ない想い、それでいて捨てられない尊い日々。その全てが今日のあなたを形作っているというのなら…そうですね、私はそれに感謝しなければならないのかも知れません」
 伸べた手を戻し、再びポケットに両手を入れてジェイドは言う。
 見つめる先、青い青い海。
 ティアは俯き、目を伏せる。
 長い睫毛に隠れた蒼い瞳は見えない。
「過去を思うこと。目を逸らさないこと。過ぎ去ったものはある意味で絶対です。どう足掻いても変えられない…そう、良くも悪くも」
「それは…わかります。だからこれは、単なる私個人の感傷か追憶に過ぎません」
「…そこまでわかっていて、何故惑うのですか?」
「大佐こそ、どうして今日はそんなに饒舌なんですか?」
「………なるほど。そうきましたか」
 珍しく少し苦さの滲む声音で言い、ジェイドはポケットから出した手をそっとティアの髪に触れさせる。
 長い髪は潮風に舞い、気紛れに指先を掠めては逃げていく。
 いっそ抱き寄せてしまえたらいいのに、とジェイドは思う。
 …否、本当は知っているのだ。
 例えば本当にそうしたとして、ティアは決して拒んだりしない。
 だからこそためらう。だからこそ、戸惑う。
 いつかこの感情さえも、"終わってしまった"日々として思い返すことがあるのだろうか。
「帰りたいと、時々切に思います」
 ぽつりと落ちた呟きに合わせて、一際強く跳ねた波が光を映す。
 ティアは顔を上げ、海を――あるいは水平線を――じっと見つめる。
 そこにはもう船影は見えなかった。
「今は?」
「……帰れる、ものならば」
 端的に落ちたジェイドの問いにティアは短く言葉を返し、それを聞いたジェイドもそれきり何も言わなかった。

 郷愁だとか寂寥だとか。
 今更そんな感情を抱くわけではないし、また抱く必要も持ち合わせていない。
 もしかしたらそれは言いわけかも知れないけれど、結局そんなことには今更何の意味もないことは自分自身が一番よくわかっている。
 懐かしむべき故郷も思い馳せるべき存在も。
 とうの昔にそんなものはこの手を離れ、今この瞬間、この場所とこの存在だけが意味を持つ全て。
 帰りたい。
 還りたい。
 かえりたい。
 呟いてみてようやく、そこに異なる意味を見出したような気がしてティアはジェイドに気取られないように少し笑った。
 それは例えるなら一種の本能。
 万物はいつの日か生まれ出でたところへ還るという。
 今日もまた、眼前に広がる海は青くて蒼くて。
 いつの日か、この青に抱かれる日が来るという。
「…けれど、」
 一拍。息を継いで、そして。 










  「きっと、かえれない」










 寄せて一つ、返す波。
 真意の読めない呟きを連れて、海から出でた白波は掻き消えるように見えなくなった。
















(Homesick Canvas.....追憶)


追憶――過去を思う、という行為にはある種の痛みが伴うと思います。
思い出したくない過去、消し去ってしまいたい思い出。けれど、それらはまたどうしようもないことの最たるものだと思います。
ティアはもしかしたらジェイドよりも大人なのかも知れない、と思ったりもします、時々(…)