せめて今だけは傍にいて下さい。
口には出来ない我侭を一つ。










 兆候があったか、と問われれば頷かざるをえないのだろう。
 ジェイドは目を閉じて息を吐くと、ぐるぐると世界が回っている感覚を少しでも軽減すべく、指先でこめかみの辺りを軽く押さえた。
 数日来、街では性質の悪い風邪が流行っていると聞いた。
 年齢や性別を問わず蔓延しているそれは、短期間に非常な高熱を出させるものの割合すぐ治ってしまうというものらしい。
 王城に出入りしている医師の話では――メイドや使用人の間でも例外なく流行っている――風邪は一過性のもので、余程の事がない限り命に別状はないという事だ。
 降って沸いた病気であるため薬などあろうはずもなく、逆に解熱剤などを下手に服用すると風邪を長引かせるという噂も何処かから聞いたような気がする、とジェイドは考える。
 一向に纏まらない思考、散漫な意識。
 今なら背後を取られても気付かないかも知れない、と考えて少し笑った。
 ああ、やはり何処かおかしいらしい。
 考えてみれば、流行り病など生まれてこの方かかった事などない。
 自己管理がどうこうではなく(自己管理の面からいえばジェイドは驚くほど無頓着だ)、そもそも余り人の多い空間に近寄らないから、という理由の方が大きいのだろう。
 だとすれば原因は一体何なのだろうか。
「……まァ…別に、」
 どうでもいい。
 自分で始めた思考を自分で切って捨てると、ジェイドは椅子に深く座りなおして背に体重を預けた。
 頭の奥が鈍い痛みを訴え、徐々にその度合いを増す寒気はこれから出てくるであろう熱の兆候。
 全く堪らない。面倒な事にならなければいいが。
「…陛下が」
 今この部屋に来るとまずい、とぼんやりと考える。
 こういう類の流行り病は往々にして空気感染だ。伝染ってしまわないとも限らない。
 もっとも、王城でも流行っているのだから今更なのかも知れないが。
 そこまで考えて、ジェイドは人知れず少しだけ笑う。
 こんな時にまで思ってやる義理などあっただろうか。
 皇帝であり、幼馴染みであり、或いはとても大切な人。
 妙に人恋しく感じるのは自分が弱っているからだ。
 そう思ってしまえば、どういうわけか幾分か気が楽になった。
「………陛下…」
 呟いて、そのままの姿勢で目を閉じる。
 また一段と頭痛が酷くなっている気がして堪らなかった。













  * * *


  愛していると言われるたびに否定を返した。
  そんな事は、到底あってはならない事だ。
  彼の隣で笑っているべきは自分ではなく、もっと相応しく美しい女性でなければならないのだ。
  自分は何も持っていない。
  本来持っているべきものさえも、過ぎ去った日に失くしてしまった。
  足りないものだらけ。失ったものだらけ。
  それでも。それでも、彼はなお言い募るのだ。

 『愛してるよ』

  ああ、返す言葉が見つからない。

 『     』

  ああ、もう声さえも聴こえない。













  * * *


 目を開ければそこには、やや霞んではいるものの見慣れた天井があった。
 少しずつ意識がはっきりするにつれて様々な感覚も鮮明になり、やがて燻るような頭痛を知覚した所でジェイドは僅かに眉根を寄せた。
 先刻まで、執務室のデスクに向かっていた事は覚えている。
 けれどどうしても、その後の記憶が曖昧なのだ。
「……、…?」
 肘掛に頭を乗せる形でソファに横たえられ、取り敢えず、といった風に薄い上掛けが一枚かけられているのを認識する。
 考えようにも、鈍く痛む頭がそれを拒む。
 身体を起こそうとすれば途端に目の前がぐらつき、ジェイドはソファから落ちそうになった身体をどうにかこうにか立て直した。
 その拍子に落ちてしまった、元々は御丁寧に額に乗せられていたのであろうタオルを手に取る。
 初めは冷たかったのであろうそれは、すっかり体温によってあたたまってしまっていた。
 近くに人の気配はない。
 もっとも、感覚が鈍りきっている以上怪しいものではあるが。
「……いずれにせよこんな事をするのは、」
 たった一人の心当たりを頭に描き、ジェイドは困ったような苦笑を零す。
 結局こうなるのか、と半ば呆れながらも、何となく嬉しいような妙な気分だ。
 人間、弱ると人恋しくなる。
 事の是非はともかく、それならそれでいいような気がした。
 眠っている振りでもしてやろうかと思ったが結局やめる。
 どうせすぐに見破られてしまうのだ。

「入るぞー」

 答えなど一向に期待していない声が聞こえ、ジェイドは手に持ったタオルを再び額に乗せる。
 決して冷たくはなかったが、それでも体温よりも低いその温度は心地良く感じられた。
「生きてるかー…っと、なんだ、起きてたのか」
「ええ、今しがた」
「そうか。…気分はどうだ? 珍しく居眠りでもしてるのかと思ったら凄い熱だったもんだから吃驚したぞ」
 言いながらピオニーはジェイドの額からタオルを取り上げ、代わりに自身の掌を宛がう。
 熱を測るようにしばし触れたままのその手は、先刻のタオルのように少しだけ冷たく感じられた。
「ふーん…よくは判らんが…少し上がったかも知れないな。ま、例の風邪なら二三日で治るだろうし、たまにはいい休暇だと思って養生しろ」
「…溜まっている仕事があったのですがねェ…」
「それは大丈夫だろう。議会の方もお偉方が何人か風邪で臥せってるからな、急を要す事はないと思うぞ」
「そうですか。それはそれは」
「……そうだ、一応粥を作ったんだが、食べられそうか?」
「………陛下が手ずから作って下さったのでしたら、否やとは言えませんよ」
「ははは、そんだけ減らず口が叩ければ十分だ」
 起き上がろうとするジェイドにさりげなく手を貸しながら、ピオニーはさもおかしそうに笑みを零す。
 口では可愛くない事を言いながらも、本当は見かけよりも弱っているのだという事を知っているから、尚更だ。
 ジェイドは自己管理が甘いから、と思って執務室を訪れてみれば案の定。
 凄い熱であるにもかかわらず椅子に座ったまま眠り込むという暴挙に出ていたジェイドに、驚きとかそういうものを全て超越して呆れてしまったというのは黙っておこう、と何となくピオニーは思った。
 下手な事を言ったらジェイドはまたどんな無茶をしでかすか判らない。
 いっその事、縛り付けてでも休息を取らせてやらなくては。
「…おや、お粥に豆腐…ですか?」
「うるさい。細かい事は気にせずに食え」
「別に非難しているわけではありませんよ」
「…いちいち何か引っ掛かる言い方するな、お前は」
「性分なもので」
 熱があるというのに全く普段と変わらない態度のジェイドに、ピオニーは一抹の不安を残しつつも安堵の息をつく。
 普段なら真白な肌も、今は頬紅を差したかのように紅い。
 緩慢な動作も潤んだ瞳も、見れば見るほどやはり病人なのだ、とピオニーはよく判らない納得をした。
 ジェイドは所作の一つ一つが不思議と綺麗だ。
 匙の一口を口に運ぶその仕草さえも。
「…鬼の霍乱って奴かねェ」
「どういう言い草ですか、それは」
「アスランもな、ついこの間何処かから拾ってきたらしくて寝込んでいるぞ」
「…何の情報ですかそれは…厭味のつもりですか? 陛下」
「心配してるんだよ」
 そっと手を伸ばし、僅かに汗でべとつくジェイドの髪を一房掬う。
 ジェイドは拒むでもなく淡々と匙を口に運び、時折食器同士が触れ合う小さな音が耳をつく。
 綺麗だ、と思う。
 根拠も意味もなく、ただそう思った。
「ま、何にしても十分に休め。お前は普段から無理が過ぎるし、自愛が足りな過ぎるからな」
「…はいはい」
「…珍しく素直だな」
「病人ですからね」
 全くもって病人らしくない笑みを浮かべてジェイドはそう言い、空になった器をピオニーに差し出す。
 それを受け取ったピオニーの手が再び額に触れれば、今度ははっきりと冷たいと感じた。
 やはり熱が上がっているのかも知れない、と思う。
 頬が熱いのも何もかも、きっと熱の所為なのだ。
「…伝染ってしまいますよ」
「それでお前が治るんなら、それでもいいかもな」
「……馬鹿な事を……さ、出て行ってください。私は少し眠る事にします」
「…そうか」
 しばらくしたらまた来る、と言って、ピオニーはそっとジェイドの額から手を離して立ち上がる。
 それ以上も以下もなく、再び横になるとジェイドは黙って目を閉じた。
















(line graph)


流行り病とか言ってますが完璧に捏造です。こういう変な設定で小説書くのは楽しいので好きです。
割と甘めかなーとは思っていますが…どうなんでしょう? 陛下は大佐の事を色々ちゃんと理解してればいいと思います(…)