触れた手も、交わした言葉も。
それだって多分、
君を繋ぎとめる理由にはならなくて。










 歓談に満ちた食堂を辞し、自室に戻ればそこは真っ暗だった。
 バビログラード港の夜は何処までも静かで、時折寄せては返す波の音が妙に遠く大きく聞こえた。
 手探りでドア付近に据えられた明かりを灯す。
 漸く明るさの戻った室内には、ベッドに突っ伏すような形で寝転がるマオの姿があった。
「…マオ、眠っているのか?」
 半ば返事を期待しないままそう問いかければ、マオは緩慢な動作ながらも身じろぎ、顔を上げた。
「お帰り、ヴェイグ」
「あぁ。まだ皆は下で食事をしているが、お前はどうする?」
「うん〜…ボクはいいや」
 そうか、と答えるヴェイグの声を聞きながら、マオは二三度、眠い目を擦った。
 ごろりと横向きになるように転がり、波の音に耳を澄ます。
 今は少し風が穏やかなのか何なのか、水音は短く小さかった。
 そうしながら今度は仰向けになるように再び転がる。
 途中此方を見つめるヴェイグに気付きながらも、敢えてそちらを見ないようにサイドボードへと視線をやる。
 巡らせた視界の端。
 硝子で出来た小さな一輪挿しに、寄り添うようにして佇む、それは。
「勿忘草…と、忘れて草?」
「忘れて草? 確か以前、ミナールの近くで見かけた…あれか?」
「あぁ、うん。こっちのピンクの方が忘れて草で、この青いのが、」
 勿忘草、と言いながらマオはそれを一輪挿しから抜き取った。
「Forget me notとPlease forget me…か。何か、酷い話だよね…」
「何がだ?」
「花言葉。“私を忘れないで”と“私を忘れてください”」
「…名前の通りだな」
「あはは、そうだネ」
 手の中の勿忘草はそのままに、マオは上体を起こしてヴェイグを見た。
 未だドア付近で立ち尽くしているヴェイグに隣に座るよう促し、彼がそれに従えば今度はその肩にもたれかかった。





  忘れないで、と、どうか忘れて。
  正反対の願いを抱く花は、それ故にかその姿はよく似ている。
  けれど、その色彩は対極。
  並び立てば互いを引き立ても殺しもする、青と紅。





「…この花には、伝説があるんだよ」

 かつて、勿忘草を摘み、恋人に贈ろうとした男がいた。
 しかし彼は、花を手折り恋人の元へと向かう途中、川へと転落した。
 それを見た恋人は悲鳴を上げ、けれど男は、さいごに。
  『忘れないで』
 そう叫んで花を放り投げた。
 小さな、青い、勿忘草を。

「…それを受け取った恋人は、それからずっとずっと勿忘草を身に付けて、男を想って過ごしたんだって」
「…そうか…」
「何か…可哀想、だよね」
「……」
 誰が、或いは何がとは明言しないままマオはポツリと呟いた。





  視線の先、淡青の花は静かに。
  さいごの思いを、永遠の想いを。
  その名に冠し、そして願う。
  “どうかどうか、忘れないで”





「もし男が“忘れないで”って言わなかったら、恋人は男を忘れたかな?」
僅かにヴェイグの方に体重を寄せて、その双眸に淡青を映したまま、マオは。

「もし贈られたのが“忘れて草”だったら、恋人はどうしたかな?」
寄りかかる身体の軽さに、ぽつぽつと紡がれる哀しげな言葉に、ヴェイグは。

「…どうして男は…“忘れないで”なんて、言ったんだろう…?」



 示し合わせるでもなくそっと指を絡ませ合い、マオは勿忘草を、ヴェイグは硝子の一輪挿しに佇む忘れて草を見つめる。
 窓の外ではまた一つ波が寄せ返したらしく、一際高い水音が冷涼な空気を微かに震わせた。
 触れ合った手が酷く冷たい。
 まるで、ぬくもりを忘れてしまったみたいに。





  例えば、の話。
  これから先、何らかの事情で傍にいられなくなった時に、どうすれば泣かずに泣かせずに済むのだろうか。
  “忘れないで”と言う事も“忘れて”と言う事も多分、違う。
  忘れたいのなら忘れればいい。
  忘れたくないなら忘れなければいい。
  だって、消えた自分にはそれを知る術はないのだから。





「…ヴェイグ」
「何だ?」
「……どうしたら…ヴェイグは、ボクを忘れてくれる?」
「…マオ…?」
「…だって…!!」
 叩きつけるように一つ叫び、マオは手の中の花とヴェイグの手を握り締めた。
 ちり、と一瞬。
 淡青の花弁が紅く染まる。
 極弱いフォルスの炎は跡形もなく花を燃し、刹那閃いた明るさはすぐに消えた。
「だって…だって……」
 マオはうわ言のようにそう繰り返し、空になった自分の手を尚きつく握り締める。
「…マオ、」
「忘れないで、なんて…言えないよ…」
 例えば、の話。
 こうして、炎と共に消えた花のように、跡形もなく消えてしまえば。
 束縛か足枷か、いずれにしろその信念の妨げになる事だけは確かで。
 どうして誰かと共にあるという事はこんなにも難しいのだろう。
 今は、こんなにも近くにいるのに。





「……いえないよ…」





 ポツリと零れた言葉は、高い波の音に飲まれて消えた。
















(忘却観念)


どうしても書きたかった勿忘草と忘れて草の話です。これも一つのヴェイマオのあり方だと思います。
ちなみに、勿忘草は薄い群青か空色、忘れて草は画面で見る限りピンク色らしいです。