振り向いて見るには遠すぎて。
けれど、
過去として懐かしむには近すぎて。










「ティトレイの手って綺麗だよね」
「………はぁ?」
 ざくざくと音を立てながら、出来る限り避けようとはするもののやはり草木を踏み倒して森の中を歩いている途中。
 前を行く仲間の背を見ながら、マオは隣を歩くティトレイに話しかけた。
「何だよいきなり?」
「う〜ん…判んない。何となくそう思っただけ」
 でも綺麗だよ、と。
 ティトレイの方を見るでもなくマオは重ねて言う。
 足元に張り出した木の根をひょいと飛び越え、着地した時にはまた足元で落ち葉が音を立てた。
 森に入ってすぐの辺りでは何度かバイラスに出くわしたりもしたが、半分以上も深くに入ってしまえばバイラスどころか他の生き物の気配もない。
 鬱蒼とした森に届く陽の光は僅かで、時折木々の隙間を縫って地面を照らすそれは妙に眩しかった。

 森の中はいつも夕暮れみたいだ、と思う。
 茜が射す訳でも宵闇が迫る訳でもないけれど、言い知れない不安だとか底の見えない恐怖だとかは何処となく夕暮れのそれに似ている。
 つくづくヒトは太陽の下でしか生きていけないのだと思い知らされる。
 是非を問うような事でもないのだろうけれど。

「…マオ?」
 心配そうなティトレイの声にはたと我に返る。
 いつの間にか足も止めてしまっていたらしく、すぐ前を歩いていたはずの仲間の背中は随分と遠くに見えた。







  あぁ、ほら。
  また知らないうちに。







 覗き込むようにしてマオの顔を見たティトレイは僅かに眉をひそめた。
 疲れているようにも体調が悪いようにも見えないのに、ただどういう訳か目の焦点だけが合っていないように見える。
 自分には経験がないのでよく判らないが、そういえば以前にもこんな目をした人を見た事がある気がする、と思い記憶を手繰る。
(あれは…確か)
 そこまで考えた時、遠くで仲間の呼ぶ声がした。









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 夕食後は翌日に支障をきたさない程度に各自の自由に過ごすというのは最早暗黙の了解だった。
 それでも大抵の場合各々する事は決まっていて、ティトレイもその例に漏れずいつものように夕食の後片付けをしていた。
 少し離れた所からは占いでもしているのだろうアニーのはしゃいだ声とヒルダの落ち着いた声が聞こえ、反対側からは今後の事を話すヴェイグとユージーンの潜めるような真剣な声。
「ティトレイ」
 正面からは自分を呼ぶ声。
 つい、と顔を上げれば、昼間と変わらず何となくぼんやりとした表情のマオと目が合った。
「どうした?」
「んー…退屈、なんだよね」
「ヴェイグに構ってもらえばいいじゃねぇか」
「だってユージーンと話し込んでるからさ、邪魔しちゃ悪いかなーって」
 じゃあ俺の邪魔するのはいいのか。
 そう言いかけて、片付けなんかもう殆ど終わってしまっている事に気が付いてティトレイは口を噤んだ。
 マオも恐らくそれを見越してこうしているのだろうし、実際の所ティトレイだって暇は暇だ。
(…それに)
 どうしてもマオの目が気になった。
 自覚があるのかないのかは定かではないが、いずれにしたってそれが異変である事に変わりはない。
 少し話してみて、もしも自分にどうにか出来るような事であるならそれでいい。
 だが、もし無理なら早急に何らかの手を講じなければならないだろう。
 落ち着いていても大人びて見えても、マオは結局未だ"子供"というカテゴリに括られる年齢なのだから。





  例えば記憶を失う以前。
  例えばカレギア城で王の盾として過ごしていた頃。
  例えば、自分と出会う前。
  誰かが傍にいてやったのだろうか。
  こんな風に、泣きそうに微笑っている時に。





「手」
「え?」
「何で綺麗だと思ったんだ?」
「……それは、」
 それは、と口の中で繰り返しながら、マオは時々盗み見るようにティトレイの方を見た。
 どうして。
 どうして?
 判らない、ただ、あの時はそれしか言葉が見つからなくて。
 改めてまじまじとティトレイの手を見る。
 自らの拳を武器としている所為かそこここに細かな傷が見られたが、長い指や整えられた爪は妙に彼に似合うと思った。
 戦闘に於いては武器となるそれも、野営の時などには料理人の手に変わる。
 一見するととても料理なんてしそうにないティトレイの作る料理は、とても繊細で、とても優しい。
「……ごはんが美味しいから、かな?」
「何だそりゃ」
 言いながら、ティトレイはマオの頭をくしゃくしゃと撫でる。
 やめてよ、などと言いながら笑うマオの表情は最早泣きそうには見えなかったが、相変わらず何処かぼんやりとしているように思えた。
 再び記憶の糸を手繰る。
 いつだったか、何処かで、誰かが見せた、あれは。











 故郷ペトナジャンカにて。
 あれは確か、自分がまだマオよりもずっと幼かった頃。
 壊されていく民家を。
 しばしを過ごした家屋を。
 見送るように、じっと見つめていたのはその最後の住人。
 遠くに行くのだとその人は言った。
 そして、もうこの家は役目を終えたのだと。
 はっきりとそう言って微笑ったその人は、まるで泣きたいのに泣けないようだった。
 寂寥、或いは郷愁。
 捕らわれて囚われて、けれどもう行かなくちゃ、と。


「……何かを懐かしむ歳でもねぇだろうに」
 ぽつりと呟いて、マオの頭を掻き撫でていた手で今度はその頬を軽く引っ張った。
 疲労の所為か何なのか肌は少しかさついていたが、きめの細かさや弾力は子供のそれ。
 何を懐かしんでいるのか、何を思い返しているのか。
 そんな事は知る由もなかったが、ただ一つ判る事はその何かは既にマオの手には余るという事。
 泣きたいのなら泣けばいいのに、と思いながら、けれどそれは自分の役目ではない事をティトレイは知っていた。
「ちょっ…と、ティトレイ!いつまでほっぺた抓ってんのさ!!」
「おっと、悪ぃ悪ぃ」
 頬の手を離し、再び髪をかき混ぜるように二三度撫でて今度こそ手を引っ込める。
 よくよく見ればマオの目から先刻までのぼんやりした様子はなくなり、すっかりいつもの調子に戻っているようだった。
 もしかしたら空元気かも知れない、とも思ったが、たとえそうでも自分にはどうしようもない事で。
 今のマオにはちゃんと傍にいてくれるヒトがいて、それはまた泣きたい時に泣ける場所でもあるのだろうから。
「…お。マオ、ヴェイグ達の話、終わったみたいだぜ」
「ホント!?」
 打って変わって嬉しそうに、けれど何処とないぎこちなさを残したまま、マオはヴェイグの方へ走っていく。
 その後ろ姿を見送りながら、ティトレイは明日の朝食の献立にマオの好物を思い浮かべた。
















(寂彩夜想曲)


ティトレイとマオのコンビの話。あくまでティトレイ+マオ。