ザ、と、はるか遠くに波の音を聞いた気がした。
 夜は未だ明けるには程遠く深く、小さな灯りを映す硝子には白く自分の顔が映っている。
 星のない空に浮かぶ月は、今日も死んだように青白い。
「風邪引くぞ」
「平気」
「嘘つけ、青白い顔しやがって」
 言葉とともに伸びてきた手が灯りを消せば、硝子の向こうには夜が残った。傍らに座った自分のものではない体温に、今更ながら自分の身体が冷えていることを知る。
 夜の向こうは見えない。
 波の音が聞こえた気がした。
「……何、どうしたの?」
「別に……寝ないのか?」
「ン、眠くない」
「いや、寝ろって」
 苦笑気味にそう言って、彼はその大きな手で私の頭をそっと撫でた。こんな夜、私に触れる彼の手はとても優しくて、私はいつも少し泣きたくなる。
 彼の隣はいつだって酷く苦しい(窒息してしまいそうなほど)。
「波の音がした」
「ンなわけねェだろ」
「……したよ。呼ばれているみたいだった」
 酷い息苦しさを覚えながら、けれどそう言えば彼は困ったように少し微笑った。私は彼のそんな顔が嫌いだ。優しさといたみがない交ぜになったような、慈しみと哀れみがない交ぜになったような。けれど一番嫌いなのは、彼にそんな顔をさせてしまう私自身だ。いっそ突き放して欲しいとさえ思うのに、本当にそうなってしまうのが怖くて、私はいつだって彼の手の温度を窒息しそうになりながらも欲している。
 波の音は聞こえない。
 月は死んだように青白い。
「海が見たい。けど、夏は嫌だな……冬がいい。冬の海」
「俺は夜がいい」
「……波の音が、」
「しねェよ。……もう寝ろ、ここにいっから」
 促すように握られた手は言葉に反して微かに震えていて、私は逆に酷く安堵した。もう一度硝子の向こうに視線をやって、そこに海がないのを確認して目を閉じた。
 夜は今日も、形を変えて押し寄せる。
 波の音は聞こえない。
 潮の香りなんてもう忘れた(違う、そんなもの、初めから知らない)。
「俺は、」
 ぽつり。落ちた声は聞こえないふりをする。聞きたくない。(あァ、けれど、)彼の手が強く私の手を握る。少し痛い。
「俺は、お前と一緒には、行けないんだろうな」
 (何処へ?)(何処へだって)
「何ものこすな。それでいい。全部持って、行けばいい」
 (何処へ?)(何処へだって)(どうして?)(―――――)
「ここに海はないんだ。どれだけ望んでも、なァ、叶わないことだってあるだろうが」
 緩く私の髪を梳きながら、彼はぽつぽつと言葉を紡ぐ。その手の震えはとうに止まっていて、そこから伝わるのは確固たる彼の意思。漠然とした怖れはきっと、遠くない未来を手繰り寄せる。私はそのときを漠然と怖れている。
 (どうして?)(―――――)
 (知っているのに)(叶わないってことぐらい)
 私は彼が好きだけれど、それだってきっと全てにはなりえない。こうしている瞬間の不確かさは驚くほど確かで、結局、いつとも知れずやがて明ける夜のように、終わりの決まっているものなのだと思えてならない。
 夜は積もり、崩れるようにやがて明ける。そんな日々を繰り返して、その果てにいつか、明けない夜の訪れを願っている。(それはあるいは別離だろうか。)
 波の音は聞こえない。
(早く。永遠でないなら、)(何でもいい、はやく、)
 夜明けは、音もなく静かに訪れては嘲笑うように去っていく。
 これ以上この時の存続なんて願えなくて、求めるものが何なのか、多分、誰にも(もちろん私にも)わからない。
 海が見たい。数多の眠りに凝る、冬の海。
(……そう、きっとそう。だってそうでなきゃ、)
 確かめるように、繋ぎとめるように、強く彼の手を握り返す。
 目を開けることは怖くて出来ない。
 いっそ、早く夜が明ければいいと思った。






(126.さよならを祈り)
pray for goodbye
(2007/08/30〜2008/04/13)




オリジナルと言えばオリジナル。二次と言えば二次……というか、もはや三次かもしれない(こら)
手の届かないところで訪れるそのときを怖れるあまり、不確定の未来を今すぐにでも確定にしようとする弱さ。
そういう話(多分)