空の色が濃さを増すのに比例して、頬を撫で、髪を揺らす風もそのぬくもりを失っていった。
 もともと活気や喧騒に溢れた街ではあるが、今日のケセドニアの空気は普段のそれではない。決戦を明日に控えたルークたち一行はもちろん、マルクト、キムラスカの両軍の将が顔を揃えているのだ。兵士たちの高揚感は、漣のように静かに、住民の間にも広がっていく。
 街に灯りがともるまであと数刻。
 乾いた砂漠の風が、夜を連れてくる。



『ピオニー陛下、いい王様ですね。どうして陛下がイオン様に和平の使者を頼んだのか、今なら判るような気がします。けど、……もしかしたら……ううん、やめときます。何を言っても、取り敢えず目の前のことをするしかないんですよね』



「思うところが何もないと言えば……やはり嘘になりますわね」
 情けないことに。そう付け加えるように呟くナタリアの声は小さく、寄せ返す波音に攫われそうになりながらもどうにかアニスの耳に届いた。
 遠く、水平線の向こうを見るかのようにナタリアは海を見つめ、アニスは黙ってその背を見る。
「私も含め、誰しも背負うものがある以上、絶対に譲ることの出来ない一線がありますわ。ただ……その代償だって、決して忘れていいものではないはずではなくて?」
「……代償……」
「でも、まずは目の前にある問題から解決していかなければなりませんわよ。未来が潰えてしまっては、何の意味もないのですから」
「例えば?」
 背に問いかければ、ようやくナタリアはアニスの方を見る。穏やかな笑みと、優しい瞳。時折よぎる影は、頭上を過ぎる雲影か、それとも。
「まずはやはり外交でしょうね。キムラスカ、マルクト、ダアトはもちろんのこと、これからはユリアシティとも国交を築いていかなければなりませんし、そうなれば当然、地理的な問題も発生してくると思いますわ。それにレプリカたちのこともありますし、やはり徹底した協力関係が望まれますわね」
「……総長たちのことは?」
「あら、アニスはそんなことを心配していますの?」
 心底驚いた、という風にナタリアは言い、アニスは逆に驚いたようにナタリアを見る。
 目の前の問題、といえば、明日に迫った決戦がその最たるものではないのか。
「だって、明日勝たないと、何にも始まらないでしょ?」
「それはもちろんですわ。言われなくても判っていましてよ」
 そう言って、ナタリアは悠然と笑む。こういうときの彼女は、王族であるからというだけではなく、人々を導くだけの力が感じられる。豪奢な衣装も、煌びやかな装飾も、飾り立てた城だって要らない。それはナタリアの持つ素質であり、やがて正しく未来を指す道標になりえるのだろう。光を受ける金糸が綺麗だ。明日も、きっと晴れるだろう。
「これまでのことも、もしかしたら明日の戦いのことも、或いはユリアの預言に記されているのかも知れない。けれど、たとえそうだとしても、未来はきっと変えていける。より良くも、より悪くも、全ては私たちが決めればいいこと。だからこそ私たちは明日、決着をつけに行くのですわ」
「預言……に、縛られない世界……ってこと?」
「そうですわね。でも私は……何より、そこに至るまでに出会った全てのものに、恥じることのないよう生きたいと思いますわ」
 ここに至るまでにどれだけ、出会いと別れを繰り返しただろうか。
 出会った全て。或いは失ったもの。
 生涯手離すことなどない。大切な、大切だった、あの日々。
「……ところでアニス、さきほどのあなたの質問、あなたならどう答えますの?」



『私、自分のしたことはちゃんと判ってますよ。だからこそ許して欲しいなんて言えないし、言わないんです。ごめんなさい、イオン様。ごめんなさい、みんな。でも、いつまでも弱音ばっかり言ってちゃ駄目ですよね』



「どうかな……自分でも今更だと思うけど……やっぱり、なくはないんだと思うよ」
 曖昧に語尾を濁し、更に曖昧な笑みまで付け加えてガイは答えた。やがて沈んでいく夕陽はまるで作り物のようで、けれど確かなその眩しさに、アニスはそっと足元に視線を落とす。長く黒く、伸びる影は重ならない。
「同じことなんだよな。俺たちには俺たちの信念や願いがあるように、奴らにだって、ある。そのために出来ることをして、その結果をちゃんと受け止めるってのは、よほど強くなきゃ出来ないと俺は思う」
「……」
「……まぁ、だからどうってこともないさ。大変なのはこれからだろうし、明日は決戦だもんな」
 地平は見渡す限りに続き、まるで果てなどないかのように静かに横たわっている。
 明日、全てが決まるなんて嘘かも知れない。そう思えるほどに、眼前の世界は圧倒的な力を持っているような気がした。
「……例えば、だけどさ」
「なあに?」
「ヴァンたちのしてきたことを、もしも、何らかの形で償うことが叶うとしたら……どう思う?」
「どう思うって……いきなりそんなこと言われても……判んないよ」
「……そっか」
 俺も判らない、と。そう呟くガイの声は何処か淋しげで、アニスは思わず、続けて言葉を紡ごうとした口を噤んだ。
 街の入口から、一度ならず歩いた砂漠を見る。乾いた風が髪を揺らし、頬を撫でて過ぎていく。遠くに見えるのはオアシスだろうか。旅人の渇きを癒すそれが、儚く消える蜃気楼じゃなければいい。
 アニスは顔を上げてガイを見る。逆光で、その表情は読めない。
「きっと、ヴァンたちは償うことを望まないと思う」
「え?」
「勝手な推測だけどさ、そう思うよ。謝罪することと、贖罪することは違う」
 贖罪、という言葉にアニスはほんの少し表情を歪める。ガイの方からは、多分、アニスの表情は見えているはずだ。アニス、と、呼びかけるガイの声は柔らかい。世界を染める茜が眩しい。
「でも……それならどうすればいいの? もしも何かしたいと思っても、それじゃあ何も出来ないよ」
「俺はさ、自分で、自分のしたことが判ってるんならいいと思う。いつまでもくよくよしてたってしょうがないし、いつか機会を得たら、そのときに出来る何かをすればいい。……急がなくてもいいんじゃないか?」
「……でも」
「一人で抱えきれないなら、誰かに一緒に持ってもらえばいい。共有というよりは……共感、かな。俺にだって、一人じゃ立っていられそうにないときがあったけど、どうにか今、こうしていられるわけだしな」
 繰り返した言葉は、一体何処へ還るというのか。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 決して目を逸らすことはしない。あの哀しみも、痛みも、思いも……全て。
「そういや、アニスこそどうなんだよ。別に無理に答えろとは言わないが……もし俺が同じこと聞き返したら、どう答える?」



『旅が終わったら、私、自力で初の女性導師を目指すんです。私は第七音譜術師じゃないから預言は詠めないですけど、そんなの、預言に頼らない世界になっちゃえば関係ないですよね。……でも、今までみたいに預言には頼らなくなっても……守りたいんです。守ります』



「あるわ。だって、私はきっと、全てに一番近いところにいたんだもの」
 きっぱりと言い切るティアの声は凛と、涼気を帯び始めた砂漠の空気に響いた。見上げた空には、茜に映る黒い影。アルビオールの影だ。
「あの日、あのときに、って、何度も思った。それならば未来はこんなにも残酷じゃなかったかも知れないし、もっと多くの選択肢があったかも知れないもの。でも……判っているの。もう、手遅れだって」
「本当は戦いたくないの?」
「……そうね、そうかも知れない。どうして私が、どうして兄さんがって、考え出したらキリがないわ」
 おかしいでしょう、とティアは言って、そっとアニスの頭に掌を乗せた。手袋越しの細い指が、緩やかにアニスの髪を撫でる。  最も年少であるはずのアニスは、ティアと同じか、或いはそれ以上の思いを抱えているのかも知れない。そう思えば、目の前にいるのは、必死で背伸びをする幼い少女でしかないのだ。アニスの置かれた環境が、彼女を歳相応の少女でいることを許さなかったのだろうか。或いは、アニス自身がそうあることを拒んだのだろうか。
 アニスが半ば首を傾げるようにしてティアを見る。ティアは曖昧に笑った。
「私の……ユリアの譜歌は、これからもきっと歌い継がれていくわ。たとえ力を失っても、譜や旋律は残るから」
「? 何、いきなり?」
「私のやりたいことよ。ユリアの譜歌を、正しく後世に伝えること」
 旅の最中、ティアの譜歌には幾度となく助けられてきた。
 ユリアの譜歌は、譜と旋律を知っているだけでは意味を成さず、そこにこめられた意味と象徴を正しく理解していなければならないという。一番から七番まで、全てを歌い上げる大譜歌こそ未だ失われているが、ティアはそのほとんどを操ることが出来る。  しかし、プラネットストームを止めてしまった今となっては、その力は失われていくばかりだ。ティアの言葉通り、譜や旋律ばかりをのこして。
「……何だか淋しい気がする」
「そんなことないわ」
 譜、旋律、意味、そして象徴。その全てを抱くユリアの譜歌。強大な力などなくとも、そこには多くの思いがあるのだ。
「兄さんが私に伝えてくれたように、私も誰かに伝える日が来る。そうして、連綿と受け継がれていくの。ふふ、素敵でしょう?」
「……ティアらしいね」
「ありがとう」
 ふわりと笑んだティアにつられて、アニスも微かな笑みを零す。
 これからのこと。決して知りえない、遠い遠い未来のこと。  これまでのこと。もう二度と還れない、変えられない過去のこと。
 どうか優しくありますように。どうか、哀しみばかりが繰り返されませんように、と。
「そういえば、アニスはどうなの? もし私が同じ質問をしたら、何て答える?」



『今でも、ちょっとだけ思うんです。もし、導師守護役が私じゃなかったら、死ななくてもいい人がたくさんいて、もっと……違う未来になってたんじゃないかって。誰かが泣くたびに、傷つくたびに、胸の奥が痛くなります。多分、これは一生消えないんです。大事な記憶と一緒にずっと、ずっと覚えてます』



「……ずっと考えてる。けど、多分一人じゃ答えなんて見つけられないと思うんだ。だから、まずは全部終わらせる。終わらせてから……また考える」
 格好悪いよな、と言って頬を掻くルークに、そんなことないよ、とアニスは笑う。宿の一室、開け放たれた窓の前。ほとんど藍に染まった空に、街の灯りを映したルークの髪の色はよく映えた。
「今の俺があるためには、今まであったことが一つでも欠けてたら駄目なんだ。全部の結果が、今の俺。はは、みんなには迷惑かけっぱなしだったけどな」
「……本当だよ。何でもっと早く気付いてくれなかったのかなぁ、もう」
 くすくすと笑いながら、アニスはルークに向かって片目を瞑ってみせた。
 やがて今日も終わっていく。彼を形作る日々の欠片が、また一つ、静かに降り積もっていく。
「今でもさ、夜中にうなされて目が覚めるんだ」
「……アクゼリュス?」
「それもだし、レムの塔のこともある。……何か俺、死にぞこなってばっかりだな」
 努めて軽くそう言い、ルークは窓の外に視線を投げる。
 人々、街、外殻大地、魔界、オールドラント。いつの間に、守りたいものがこんなにも増えてしまったのだろう。多くを奪った手で、より多くを守りたいと願う。ここに至るまでの代償はあまりにも大きすぎた。だからせめて、それに見合うだけの未来を掴み取らなければならないのだ。
 アニスはじっとルークの横顔を見つめる。気のせいか、胸の奥が痛かった。
「もう、誰かが死ぬのは嫌だよ」
「うん。俺も」
「……何でこんなに苦しいのかな」
「……」
 零れ落ちた小さな呟きに、ルークはついと視線を戻した。アニスはルークを見ていない。その向こう、広がる世界、過ぎ去った過去を、見ている。
 過去を思えば思うほど、かつては見えていなかった選択肢が見えてくる。もしそれを選び取れていたのなら、現在はもっと、多くにとって優しいものであっただろうか。そこは決して知りえない仮定の世界。優しくも残酷な、選べなかった仮想の世界。
 そこにあるのは後悔とは少し違う。それは多分、寂寥に似た何かだ。
「……いつか、忘れられちゃうのかも知れないね」
「どうかな……でも、俺は忘れない。忘れちゃ駄目なんだってことは、判るから」
「……忘れたくないよ」
「……、俺も」
 静かな声は、開け放たれた窓から空へと還っていく。アニスはその軌跡を追うように窓の外を、ルークは眼下の街を、それぞれの思いとともにじっと見つめた。
 深く胸に刻み込む。
 自らを形作る、これまでの全て。
 この瞬間を、決して忘れることのないように。
「つーか、何か俺ばっかり喋ってねぇ? アニスはどうなんだよ。その質問、何て答えんだ?」



『忘れないんじゃなくて、覚えていたいんです。嬉しかったこと、つらかったこと。全部、ちゃんと持っていたいんです』



 街はいつしか、すっかり夜の帳に包まれていた。ぽつぽつとともった灯りは、先刻までと比べて随分頼りない。昼間の暑気が嘘のように、夜の砂漠には冷涼な空気が満ちている。気のせいか、空気もしっとりと肌に纏わりつくような気がした。
 ざくざくと、ゆっくりとした歩みに合わせて足元で砂が鳴る。正確な時刻は判らないが、もうほとんど深夜近いのではないか、とアニスは思った。
(明日……もう今日かな? 終わるんだよね、全部。もうすぐ……全部終わる)
 終わり。繰り返しそう考えて、先刻の仲間たちの言葉を思い出す。彼らは、明日を終わりだとは思っていない。区切りでこそあれ、彼らにとって明日の終わりは未来の始まりなのだ。
 そんなことを考えながら、ようやく辿り着いた酒場のステップを上がり、アニスは両手で戸を押し開いた。一歩中に入れば、噎せ返るようなアルコールの香りが鼻をつく。けれどそれとは対照に、店内は綺麗に片付けられている。酒宴はとうにお開きになっていたようだ。
「……」
 見回すほどもない、さして広くない店内に、目当ての姿はすぐに見つかった。数刻前に別れたときと変わらない。カウンタに肘をつき、僅かに斜め上を見ている。アニスの気配になどとうに気づいているであろうに、その後ろ姿は振り向こうともしない。
 苛立ち紛れに、アニスは手近にあった椅子を蹴った。ガツン、と鈍い音。痛いのかどうか、よく判らなかった。
 そうしてようやく、青い軍服の背が振り向く。僅かに細められた両眼は、ランプの灯を受けて燃えるように紅い。
「おや、アニスではありませんか。子供は早くお休みなさいと言いませんでしたか?」
「ぶー。子供扱いしないでくださいよぅ!」
「これは失礼。……そうですね、子供でももう少し聞きわけはいいものかも知れません」
 普段と変わらぬ調子のジェイドには構わず、アニスはカウンタに背を預ける形で、その隣のスツールに座った。見れば、ジェイドの手元のグラスはとうに空だ。大人の時間、などと言っていた割に、大した量は飲んでいないように見える。もっとも、明日に差し障ることがあってはならない以上、ここで酒宴を催していたのはもっぱら住民や商人たちであったのだろうことは容易に想像出来た。
「こんな時間にわざわざどうしました? 私に何か御用でも?」
「……大佐にこんなこと言ったら怒られちゃいそうなんで迷ったんですけど……でも、一応言っときます」
 アニスはそこで一度言葉を切り、先刻までの仲間たちとの会話を思い出す。彼らは優しいから、アニスの真意を汲んでくれていたのかも知れない、と思う。それを嬉しく思う自分が嫌で、それを厭う自分が嫌だった。けれど本当は、彼らにそんな風に気を遣わせてしまう自分が、一番嫌だったのだ。
 ちら、と横目でジェイドを見る。普段通りの笑みがそこにはあった。
「大佐は、今まで旅してきた中で、もっとこうすればよかったとか、こうなればよかったとか、そういうのあります?」
「……何です、藪から棒に」
「私は、もしも私が導師守護役じゃなかったら、って、本当はいつも思ってました。もちろん……今でも」
「……」
 ジェイドはそのまま黙り込み、アニスはジェイドから視線を外して俯いた。それを伝えて、一体どうするつもりなのか。どうして欲しいのか。判らない。判らないけれど、ジェイドならアニスの望むものを与えてくれるような気がした。
 長い沈黙。ジェイドは未だ、何も言わない。
「……楽しいことも、大変なことも、つらい……ことも、たくさんあったけど、私は、みんなと旅が出来てよかったと思ってます」
 静かな声音で、アニスは呟く。じりじりと揺れるランプの灯に照らされた横顔には濃い影が落ちている。それは何処か、ここではない、今ではないいつかを見つめているようにぼんやりと映り、ジェイドはほんの少し、アニスに向ける双眸を細めた。
 沈黙。そして、静寂。砂漠の夜は酷く淋しい。
「まるで今生の別れのようですねぇ」
「もう、茶化さないでくださいよ!」
「茶化してなんかいませんよ、心外ですねぇ」
 明らかに本心からではない口調でそう言い、ジェイドは指先で空のグラスを弾いた。ややくぐもった音が一瞬だけ形を成し、けれどそれは余韻もなく宙に溶けた。
「アニス?」
「……明日になって、それも過ぎて……そうして、またこんな風に笑って話が出来るとは限らないじゃないですか」
 淡々と落とされた言葉は、けれど端々が微かに震えていた。平静を装うだけの余裕もないのか、とばかりに零した苦笑は、小さな溜息と交じり合って静寂を揺らす。
 妙な高揚感は明日に控えた決戦の所為か。
 或いは、目の前の男の所為か。
「アニスらしくもありませんね。決戦前でナーバスになっているのですか?」
「え……や、ヤダなぁ大佐ってば。そんなことありませんよぅ」
「アニス」
 明らかな動揺を見せたアニスに、ジェイドが短く追い討ちをかける。
「……、……みんなに……話を聞いたんです。これからのこと、これまでのこと、色んな話を、聞いたんです」
 一言一言、噛み締めるようにアニスはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そしたら……何て言うのかなぁ……判んなくなっちゃったんです」
「これからのことですか?」
「ん……と、どっちかといえば、これまでのことです。何が正しかったのか、正しいことが何だったのか、今思えば……」
「アニス」
 ジェイドは再び短く声を投げ、アニスは答える代わりに口を噤んだ。ジェイドは仮定の話を好かないのは、もう十分すぎるほどに知っている。これからが仮定の未来ならば、これまでは確定の過去だ。あとはそれが意味を持つかどうか。明日が過ぎた、そのあとの話。
「……アニスちゃん、あと十年もしたらすっごく美人でスタイル抜群な、立派な大人の女になっちゃいますから」
 何の脈絡もなく、唐突にアニスはジェイドの方を見てそう言った。
「……それで、大佐よりももっともーっと素敵でお金持ちな人と結婚するんです。あ、昔のよしみで、結婚式には呼んであげてもいいですよ」
「それはそれは。楽しみです」
 ありえないかも知れない、仮定の話。多くの中から選び取った現在の、その先に連なる、数ある未来のうちの一つの話。
「……そしたらきっと……いつか大佐のことなんて忘れちゃいます。大佐だって……きっとおんなじです」
「……そんなことは」
「ありますよ。きっと。……大佐だっていつか、私のことなんて忘れちゃって、研究ばっかりしてて、いつの間にか婚期を逃しちゃうんですよ」
「おや、それは……フフ、困りますねぇ」
「でも」
 一転、強い口調でそう言って、アニスはジェイドの軍服の袖を掴む。
「でも絶対、研究続けてくださいね。それで、いつかどどーんと世界中に大発表しちゃってください。絶対、絶対ですよ」
「それで、私は生涯独り身ですか。淋しいですねぇ」
「大事なのはそこじゃないですよぅ!」
 冗談とも本気ともつかないジェイドの態度に、アニスは思わず声を荒らげる。
 そんなことを言いたいんじゃないのに。
 そんなことを聞きたいんじゃないのに。
 何かを言おうとしては黙り込む。そんな、上手く伝えられないもどかしさばかりが募っていく。
「……私はね、アニス」
 言いながら、ジェイドの手が袖を掴むアニスのそれに重なる。きつく握り締められた指先をそっと解き、代わりとばかりに、その手を包むように軽く握った。
アニスの身体が一瞬強張る。
「た、いさ……?」
「私は、どういう形であれ、あなたの記憶に残る存在でありたいんです」
 握った手に力を込め、撫でるように指先を滑らせる。
「酷い男だろうが、冷たい男だろうが、構わない」
 手袋越しでも判る体温。伝わってくるのは優しさ。アニスの緊張が次第に解け、今度は少し不安げにジェイドを見上げてくる。
「大佐、あの……」
「ただ、どうあってもあなたが私のことを忘れることがないように。私は、そう望みますよ」
「……そんなの」 
 ずるい。何てずるい。もう目前に迫った終わりのあと。訪れる始まりの向こうに、唯一記憶だけはのこして欲しいなんて。
 そんな言葉は要らない。欲しくない。
 今ここにある、この手のぬくもり。それ以上なんて、与えてくれなくていいのに。
「……大佐って、やっぱり性格悪いです」
 苦々しげにアニスはそう呟き、自分の手を包むジェイドの大きな手を握り返す。それは手を繋いでいるというよりまるで握手をしているかのようだが、構わない。
 今はただ、触れ合った手があたたかければ、それでいい。
「何が最善だったのか、私には判らないんですけど……でも、多分、」
「多分?」
「大佐に会えたことは……よかったと思います」
「そうですか」
 静かに積もるたくさんの思いも、優しく巡る数多の願いも。どれもこれも、いつかこの手に余るときがくるかも知れない。
 けれど、きっとその度に思い出す。
かけがえのない存在。かけがえのない、小さなひかり。
「大佐」
「何ですか?」
「私、判ったような気がします」
 そうしてアニスはジェイドを見た。
 仲間たちの言葉が今更深く胸に染み、胸の内、深い所にわだかまっていたものが静かに溶けていく。繋いだ手、傍にあるぬくもり。もしかしたら、欲しかったものはすぐ近くにあったのかも知れない。ただ気付かなかっただけ。気付けなかった、だけで。
「……だから」
 どうか。
「明日は、きっと晴れますよね」
「……ええ。きっと、いい天気ですよ」
 作り物でない笑みを浮かべてジェイドがそう答えれば、アニスはとても嬉しそうに笑った。
 繋いだ手を、どうか離さずに済むように。
 胸にともったひかりに祈る。

 ―――――どうか。








(多重録音//アンソロ投稿作品)


その昔参加させて頂いたジェイドノーマルカップリングアンソロの投稿作品。一応分類はジェイアニ。むしろジェイド+アニス。
どうしてオールキャラになったのかは当時の私に聞かないとわかりませんが、妙な収まりのよさは今もって見習いたい所です。