モノクロ映画が色を持つまで。 さあ、決着を始めよう。 かちゃりとバスルームのドアが開く音と共に、散漫な意識は僅かな衣擦れの音を捉えた。 足音もなく近寄ってくる気配を確かに感じ取りながら、それでもガイは顔を上げようとはしない。 一瞬だけ鼻腔を掠めた甘い香りは、備え付けのシャンプーか何かだろうか。 「楽しいですか?」 「いや、全然」 不意にかけられた声に動ずる事もなく、ガイは普段と何ら変わらぬ風に言葉を返す。 やたら豪奢な部屋にあって、それでもなお大きく見えるベッドの上。 ベストとブーツを脱いだ格好のガイは、ジェイドに目をやるでもなく一つ、つまらなそうに息を吐いた。 ふるりと一度頭を振って、手に持った小さな駒をベッドの上に放り出す。 片面が白、その裏面は黒。 やや小さめではあるが一見して良品と判るそれは、宿の備え付けのオセロの駒だった。 「何処から引っ張り出してきたんです?」 「あっちのチェストの一番下の引き出し。チェスとか…ああ、カードも入ってたっけな」 「オセロを選んだ理由は?」 「一人遊びには丁度いいだろ」 言いながらガイは再び駒を一つ手に取り、白面を上にして勝負の途中と思しき盤面に音もなく置いた。 そうして幾つかの駒を引っくり返し、今度は黒面を上にして同じ事を繰り返す。 まさしく一人遊び。 駆け引きも何もない、ただ只管に繰り返しばかりの。 ジェイドはそんなガイの手元をじっと見ながら、なるべく揺らさないように注意してベッドの端に腰を下ろす。 盤面はやや黒が有利。 だが、見た所半分以上互いの手数が残っているので、まだまだ勝負はこれからといった所だろう。 洗いっぱなしの髪に一度手櫛を通す。 水滴が幾つか、音もなくバスローブに落ちて染みた。 「……一人遊びにはさ、慣れてるんだよ」 ぽつりと落ちたガイの言葉に、ジェイドはサイドボードに置かれた本に手を伸ばしながら、そうですかとだけ短く返した。 そうして逸らした視線は手の中の本に落ち、適当に開いた頁の字列を見るともなく緩慢に追っていく。 殆ど惰性のようなその行為。 内容など、全く頭に入ってこない。 「それで?」 「…それだけだけど?」 「……そうですか」 不自然な間を置いて返る同じ言葉にどうやらガイは満足したらしく、今度はまた白を表にして盤面に置いた。 駒を返す、小さな音。 それ以外には互いの息遣いしか聞こえないほどの静寂。 否、もしかしたら他にも音は存在しているのかも知れない。 ただ、意識がそれと認めないだけで。 ジェイドは本から顔を上げて盤面を見つめ、数手、数十手先までを読み解いていく。 もっとも、本来と異なる形をとっているこのゲームに通用するとも思えないが。 「髪、乾かさないと明日困るぞ」 「御忠告どうも。あなたこそ、明日に備えて休んだ方が宜しいのでは?」 「はは、そうだな…この勝負に決着が付いたら、な」 「………決着…ねェ」 ガイの言葉を反芻し、ジェイドは意味ありげに目を細める。 ゲームは順当に行けば恐らく黒が勝つ。 けれどそれは、果たして決着になりうるのだろうか。 「旦那はどっちが勝つと思う?」 「どちらを勝たせるつもりですか?」 「どっちでも。この状況からなら、どういう風にだって転ぶさ」 「ガイ」 短く呼べば、何事かとばかりにガイがジェイドに視線を移す。 盤面はやや白が優勢だった。 本当はどうあれ、嘘はどうあれ。 終わってしまえば勝負は決着で、物語ならばそれは結末なのだ。 そこに意味があろうとなかろうと構わない。 それは単純にそういうもので、きっとそれ以上にはなりえないのだろう、と。 「ドロー」 「へ?」 「ドローゲームにしてみて下さい」 「…………何だ、バレてたのか」 ガイは曖昧な笑みを零し、手に持った駒を投げ出すとごろりとベッドの上を仰向けに転がった。 見上げた天井は木目が一定のパターンを刻み、幾つか目で追ううちに何処を見ているのかすぐに判らなくなる。 オセロのように白黒はっきりしていればいいのに、と思う。 勿論、そうであった所で何らメリットがあるわけではないのだけれど。 「いつだって結局…アンタに言われるまでもなくドローゲームにしかならないんだよ。決着なんてつきっこない」 「今の盤面から行けば、恐らく黒が勝ちますよ」 「…そういうんじゃ、ない。実際の盤面がどうこうじゃなくって…何ていうか……ここら辺でさ」 とん、と親指で自分の胸をついて見せれば、ジェイドは何も言わずに一つ頷いた。 当然だ、と思う。 例えば己の心に決着をつけたいと願ったとして、その勝敗を左右するのもまた、自分の手でしかないのだから。 白が勝とうが、黒が勝とうが。 結局、それは本当の――或いは求める――意味での決着にはなりえないのだ。 「まァ…何だかんだいってただの甘えなのかも知れないけどな。曖昧なまま、中途半端なままってのは、往々にして酷く居心地がいいもんだから」 「普通はそれでいいんですよ。自分自身の内情を、他者に咎められる謂われなどないのですから」 「アンタもそうなのか?」 「ええ、或いはね」 「……そっか」 ジェイドの言葉に、ガイは一つ満足げな笑みを零す。 そうして再びうつ伏せに身体を反転させると、丁度目の前に転がっていた駒を摘み上げた。 逆の手は頬杖の形に。 そうしておいてコイントスの要領で駒を親指で弾けば、くるくると回るそれはやがて、カツンと音を立てて盤面に落ちた。 まるで勝負の続行を拒むかのように。 「一人遊びには飽きたんだ」 真っすぐにジェイドの方を見つめ、ガイはきっぱりと言い放つ。 ジェイドは応えるように膝の上で本を閉じ、柔らかい表情でそれを受け止めた。 「決着が欲しいのですか?」 「そういうんじゃないさ」 「では、何故?」 「勝負しようぜ、ジェイド。どうせなら真剣勝負をさ」 言いながら、ガイは先刻と同じようにして駒を親指で弾き上げる。 それは綺麗な弧を描き、今度は音もなくジェイドの傍へと落ちた。 「勝敗なんて、本当はどうだっていいんだ」 「そうでしょうね。あなたはそんなものにこだわるような人ではありませんから」 「でも例外だってある」 「おや、どんな?」 「俺は、アンタの事が好きだ」 好きだとか嫌いだとか、ましてや愛しているだとか。 それこそ勝ち負けなんか関係なく、言ってしまえば自己満足なのかも知れない。 曖昧なままならそれで、きっと緩やかに単調に日々は流れていく。 そこにあるのはそれをよしと出来るかどうかだけの差異。 例えばこのオセロゲームの結末。 盤面を引っくり返してしまえば、もうそんなものは何処にも存在しなくなるのだ。 「オセロは駒数が少ない方が有利だというのは御存知ですか?」 「一発逆転、ってか? 勿論それもありだろうな」 「私は負けませんよ」 「あァ、上等だ」 ガイの言葉に応える代わりに、ジェイドは先刻自分の傍に落ちた駒を拾い上げる。 白い面と、黒い面。 たったそれだけが、やがて全てを決める事になるのかも知れないと思いながら。 途中だった勝負の跡を、ガイは躊躇う事なくベッドの上へと零していく。 初めから存在しない結末を、けれどもう永遠に見る事は叶わないのだ。 「たまにはきっちり白黒つけようぜ、旦那」 片手に駒を一つ。浮かべる笑みはあざといほどに艶を含んで。 身じろぎをすれば不安定なベッドの上で盤面が傾く。 一瞬たりとも気が抜けない、それは文字通りの真剣勝負。 「白黒つけて、どうする気です?」 「さァね。つけてから考えるさ」 「フフ、それはそれは……実にあなたらしい」 他愛ない会話をしながら、中心に白黒二つずつの駒を並べる。 もうこの瞬間から気が抜けない。 生半可な男を相手にしているわけではないのだ―――互いに。 「ジェイド」 「何です?」 「好きだ」 そんな事、とうの昔に知っていましたよ。 ジェイドは笑みを深めてそう言うと、盤面に一つ目の駒を静かに置いた。 (colorless-colorful) 書きたかった事はこれでもかとばかりに詰め込みましたが、それに比例して意味がわからなくなりました。いつものことです。 何で私が書くと、ジェイドにしろガイにしろいつもよくわからない事で思い悩み出すんでしょうか?(訊かれても) オセロってルールは単純なのに物凄く奥が深い。けれどきっぱり白黒で決着がつくから、ある意味ではとてもわかりやすい。 何かもう、これはつまりそういう話です。 |