月は欠け、やがて満ちる。
もう戻れないと知りながら。










 空は一面薄い雲に覆われ、遮られた陽の光は凝る涼気をそのままに僅かばかりの光源として地上へと届いていた。
 もうすぐ正午だというのにすっかり夕暮れのような街並み。
 寧ろ夜明けから全く時間が進んでいないような錯覚さえ覚えさせる景色に、ガイは黙って窓に背を向けた。
 目を閉じればすっかり耳慣れた水の都の音。
 けれど今はそれが雨音のように聞こえ、意味のない不快感を呼び起こした。
 換気の為に少しだけ隙間を残して窓を閉める。
 水音は少し遠くなった。
「…何の感傷なんだか」
 呟いて、小さく笑う。
 今もってふとした瞬間によぎる感傷。
 それはいつだって明確な理由などつけられなくて、しばし胸に燻ってはやがて音もなく消えていく。
 いっそ理由があればいいのだろうか。
 …違う、そうじゃない。
 ガイは緩く首を横に振った。
「そういうんじゃないんだ」
 言い聞かせるように声に乗せる。
 つられるように、書き物机に向かっていた男が顔を上げた。
「決着はつきましたか?」
 経緯などは全てすっ飛ばして結論だけを問うてくる声に片手を振って答える。
 肯定とも否定とも取れるそんなガイの仕草に、ジェイドは持っていたペンを置いて身体ごと向き直った。
 椅子の背に肩を預け、長い足を優雅に組む。
 厭味なくそんな所作が似合うのが一番厭味だ、といつもの事ながらガイは思った。
「いつまで私は放って置かれるのかと思いましたよ」
「仕事してたじゃないか」
「構って欲しい年頃なんです」
「……何だそりゃ…」
 心底呆れた風に呟き、ガイは二つあるうちのジェイドから遠い方のベッドに腰を下ろす。
 相変わらず水音が聞こえる。
「それで、どうなんです? 決着はついたんですか?」
「…決着…ね。どっちかといえば、折り合い、だけどな」
 ガイの言葉にジェイドは一つ頷き返し、両手の指を組み合わせる。
 そうして目を閉じればそれはさながら祈りの形で、ガイは珍しいジェイドの行動に疑問を湛えて何度か目をしばたたかせた。
 息を殺すような不自然な沈黙。
 その隙間を、雨音ならぬ水音が流れて過ぎた。





  祈るほどの何かがあっただろうか。
  望むべくもない、この瞬間の存続のほかに。





 ジェイドを真似て、ガイも両手を組み合わせて目を閉じた。
 真っ暗な視界に、ぽつんと一つ灯るのは室内灯だろうか。
 取り留めもない思考を中断して目を開け、両手を解く。
 ジェイドはまだ目を閉じていた。
「………」
「…ジェイド」
「何です?」
「…何でもない」
 歯切れ悪くガイがそう言えば、ジェイドは何も言わずに目を開けた。
 両手は組み合わせたまま、ガイの方に笑みを向ける。
 中途半端な祈りの形。
「ガイ。例えば満月が欠けて半分になったら、何になりますか?」
「半分に……あァ、半月か?」
「正解です。では逆に半月が満ちたら…真円になったら、どうですか?」
「…満月…か?」
「そうですね。…でも、本当にそうなのでしょうか?」
「…どういう意味だ?」
 首を傾げて問うガイに向けて、ジェイドは両手を解いて人指し指で中空に円を描いてみせる。
 くるん、と一回転。そして逆回転。
 先刻の言葉を借りれば満月を表しているのであろうその挙動を、ガイは黙って目で追った。
 今日の月はどうなのだろうか、と少しずれた事を考える。
 どうせなら雲に隠れて見えなければいい。
「満月は満月、半月は半月でしかないという事です。要するに」
「……」
「判りませんか? 月はそれとして一固体です。ですが、人間が身勝手に名付けた半月や満月といった名は、名付けられたそれにとってしか意味を成さないという事ですよ」
「…半月が満ちたら満月だろう?」
「ええ。ですが、満ちた半月と満月は別物だとは思いませんか?」
「俺には…よく判らない」
「フフ、私も言っていてよく判らなくなってきました……いいんです、忘れて下さい」
 言いながらジェイドは再び目を閉じる。
 らしくない行動、らしくない言動。
 ガイは先刻のジェイドを真似て、一度中空に円を描いた。







  満月になれない半月。
  半月になれない満月。
  重ねて何を思っているのだろうか。
  思えど想えど近付けない。
  近付いたとしても、結局それは別物だと知っているのだ。







「アンタは、絶対的な何かが欠けているんだな」
「……そうかも知れません」
「だから満月にはなれない。…そうだろう?」
「あなたがそう思うのなら、そうなのかも知れませんね」
「……なら、俺だって同じようなものだ」





  足りない。
  届かない。
  思えど、想えど。





 再び両手を組み合わせて、ガイは薄く開いた窓に視線をやる。
 昼間だというのに相変わらず薄暗い。
 いっそ雨でも降ればいいのに。
「それでも半月は、満月に憧れるんです」
 ぽつんと落ちた小さな声。
 ジェイドは目を閉じ、ガイは両手を組み合わせて。
 祈りの形を二人で分けて、あとはただ黙って互いを想った。
















(ハーフ・フルムーン)


いつもながら空気だけが一人歩きしました。<
ちなみにガイが満月、ジェイドが半月みたいな事言ってますが、多分どっちも半月です。気付いていないだけで。
擦れ違い…擦れ違えてない、これはどちらかといえば勘違い…寧ろ思い込み(だんだん悪くなってる)
何だかんだいってこういう形が書きやすいんですよね。この話は音が綺麗にまとまったので気に入っています。