ふ、とページを捲る手元に影が落ち、ティアは読んでいた本から顔を上げた。その動きに合わせて流れるのは、真っすぐな長い亜麻色の髪。普段なら取り立てて気にならないそれも、今は酷く鬱陶しく思えた。 「……子供じみた悪戯はやめてください」 「失礼。呼んでも返事がなかったもので」 全く悪びれる様子もなくそう言って、ジェイドはティアに笑みを向けた。その手の中には細いゴムひも。先刻まで、ティアの髪を括っていたものだ。全く飾り気のないそれを、デスクの上にそっと落とす。ティアは読んでいた本を閉じた。 久しぶりに立ち寄ったユリアシティは、いつの間にか随分活気に満ち始めていた。これまではユリアロードのみを介していた外界との接触が海伝いに可能になったことが、おそらくその最たる理由であろう。 市長への報告も無事に終え、一行は短い休息のときを得た。誰もが、そう遠くない決着のときを感じ取り始めているのかも知れない。 「すみません、ちっとも気付かなくて……何でしょうか?」 「ああ、いえ、特に用があるわけではありませんよ」 「……でも、呼んでも返事がなかったと……」 「あなたと話がしたかったんですよ」 いきなり何を言い出すのか、この人は。 いけませんでしたか、と、湛えた笑みを崩さぬままに問いかけるジェイドに、ティアは思わず瞠目した。自分なんかよりよっぽど大人であるはずなのに、ジェイドは時々妙に子供っぽいことを言う。 もっとも、そのとき彼が何を思っているのかなんて、知りようもないのだけれど。 「……お邪魔でしたか?」 「え、あ……いえ、そんなことは」 反射的に答えてしまってから、しまった、と思う。そして、そう思ったときにはもう遅いのだ。 「その本は?」 「……童話です。もう随分古いものですが……幼い頃によく読んだものなんです」 言いながら、ティアはジェイドに向けて適当なページを開いてみせる。挿絵もなく、ただ文字が並ぶだけのシンプルな本。古い本特有の多少古風な言い回しが、ティアは幼い頃から好きだった。どれもこれも、困難の果てに幸せな結末が待っている物語。幼い頃には、無垢なまでに信じていられたフェアリーテール。 「私は……あまり好きではありませんでしたね。ネフリーは好きだったようですが」 緩やかに字列を追い、やがてジェイドはティアの手からその本を取り上げた。古い本、とティアが言っていた通り、ところどころ文字は掠れ、ページは全体的に黄ばんでしまっている。それでも不思議と手に馴染むそれは、大切に、繰り返し読まれたのであろうことがうかがえた。 だが、幼い子供が読むにはいささか難しい言葉が多い。おそらくティアは、誰かに読み聞かせてもらったのだろう、とジェイドは推測した。 「これ一冊だけですか?」 「書庫に行けばまだ何冊かありますけど……興味がありますか?」 「いえ、そういうわけでは」 また一つ、自分の知らないティアを見た。 ジェイド自身も、自らについて多くを語る性質ではないが、ティアもまた、ジェイドに負けず劣らずそういう点では寡黙である。特に、旅をする中で必要となる情報――と言うと多少語弊があるが――以外、すなわち、思い出と呼ばれる類のものについては、ほとんど聞いたことがないような気さえする。 好きだった本。 傍にいた誰か。 幼い日の面影は、時の流れと共にやがて、変化の中に埋没していくのだろう。かつて、常にそこにあったはずの魔界の空は、もう、幼い日の記憶とは違う色をしている。 「あなたは、ユリアシティに戻るのですか?」 「……ええ、恐らく」 「教団……神託の盾騎士団の方は?」 「判りません。でも……」 「……ああ、いえ。無理に答えてくださらなくて結構ですよ」 「……すみません」 ジェイドはティアに本を返し、ティアは黙って再びそのページを捲る。幼い日に幾度となく読んだ物語も、今は何となく霞んで見えた。 「ところで、ティア」 「何でしょう?」 「あなたがもしユリアシティで暮らすと言うのでしたら……私も、ここへ移ってはいけませんか?」 「え……でも、大佐はグランコクマに……」 「グランコクマ……マルクトには陛下がいます。このままいけば、恐らくガイもグランコクマに戻るでしょうね。同じく、キムラスカにはナタリア、ダアトにはアニスがいますから、正直、私如きが何処にいたところで何も変わりませんよ」 「……」 でも、と口の中で繰り返し、ティアは困ったようにジェイドから目を逸らした。 困る、というのは少し違う。それは多分、単なる戸惑いだ。例えばジェイドがユリアシティで暮らすことになったとして、それはつまり、拠点を移すというだけのことだ。この戦いのあとは、おそらく何処にいても、山積しているあらゆる問題に取り組むことになる。多少内容に違いはあれど、その多くはそれぞれの国や機関が相互に協力していくことが求められるものであろう。 それならば何処にいたって変わらない。 ユリアシティにいたって、変わらないのだ。 (……、……それなら) 裏を返せば、それはユリアシティでなくとも構わないということになる。しばらく時をおけば、同じように、今度はバチカルに行くとでも言い出すかも知れない。たとえ何処に行ったところで、これまでの幾多の悪評はあれど、この期に及んでジェイドの才知を欲しがらないなんてことは考えられない。むしろ、フォミクリーの生みの親である彼の存在は、今後のレプリカたちの未来を決める鍵であるといっても過言ではないのだ。 ティアは小さく溜息を零す。一瞬でも何かを期待した自分が、何だか酷く馬鹿馬鹿しく思えた。 「……確かに、それも選択肢の一つかも知れませんね」 それに引き換え、自分はどうだろう。きっと選択の余地なんかなく――或いは自分自身の選択と信じて――ユリアシティに帰ることになるのだろう。兵士として神託の盾騎士団に戻ることも出来るかも知れないが、今更のような気もする。それよりも、生まれ育ったあの街で祖父を助けていく方がいい。きっと今なら、セレニア以外の花を咲かせることも出来るはずだ。 例えば、その隣にジェイドがいたとしたら。 ティアはそんな未来を想像しようとして、けれど、どうしても上手くいかなかった。 「でも……結局、大佐が帰るのはグランコクマのはずです」 「何故?」 「……理由なんて」 理由なんてない。そんなものは知らない。 ただ、ジェイドがユリアシティにいる理由を考えるより、ジェイドがグランコクマにいない理由を考える方が難しいだけだ。同じように、アニスも、ナタリアも、ガイも……ティア自身だって、多分、当たり前のように自分の選んだ場所へ帰っていく。 考えれば考えるほど判らなくなる。 別離のときは、きっと黙っていたって訪れるのだ。 「理由なんて……あってないようなものなんです。私と大佐の、願うことが違うように」 「あなたはそう言いますが、実際にはそれこそが理由だとは思いませんか?」 どんなに上手く隠したつもりでも、ジェイドは簡単にティアの本音を引き出してしまう。だから、腹の探り合いのような会話では、絶対にジェイドに勝つことなんて出来ないとティアは知っている。それは単なる経験値の違いかも知れないし、その根底にあるものの違いなのかも知れない。判り合うことを望みながら、ただただ、的外れの推測ばかりが降り積もっていく。それが哀しい。 「例えば、ですが……判らない、というのが、正しい場合だってありますよ」 「え……」 「無理に、全てを理屈で片付ける必要はない、と言っているんです」 正しいこと。正しくないこと。それを決めるのは自分自身であり、そこに必要なのは感情との折り合い。時には、優しい嘘が欲しいときだってあると、ジェイドは言う。 「……大佐が……そんなことを言うなんて、思いませんでした」 「そうですね。私も……驚いていますよ」 ジェイドはいささかバツが悪そうにそう呟き、指先で眼鏡のつるを押し上げた。 互いに、その存在を成す過去の形は違っている。得られる理解が、ひとときの嘘でもいいと言うのなら、それはどうしたって、嘘を脱することのできない幻想にしかなれないのだ。 「私は……こうしているこの瞬間をとてもいとおしいと思います。でも、裏を返せばそれが不変でないことも……知っています」 「……ティア」 「……いつか……いなくなってしまうんですか?」 ああ、と短くジェイドは嘆息する。やはり似ている。けれど、やはりこんな風には思えない、と思う。隔てるのは、胸に凝る痛みの深さ。彼女を成す、切ないまでの深いいたみ。 過ごしてきた日々もその長ささえもあまりにも違い、それでいて時折己よりも遥かに哀しい事実を見据えている少女。これまでもこれからも変わらないであろう――そう言ってしまうのは恐ろしいことであるが――その距離を、厭うているのはもしかしたら自分ばかりなのかも知れない、とジェイドは思った。 例えば、時計の秒針が巡りきって止まることなどありえないように、未来永劫、変わらぬ感情など、多分何処にもないのだ。 (……ですが、結局) 意味などない、と断じて少し笑みを零す。 きっとティアも同じように思っている。似ていない、という点が極めてよく似ている。差異でもって近しく傍にいられるという現実が、ただどうしようもなく淋しかった。 「ルークは……」 「ティア?」 「ルークは、一体何処に行くのでしょうか?」 不意に曖昧な問いを投げかけ、ティアはじっとジェイドを見た。 「……極めて楽観的……一般的に考えれば、バチカルの屋敷に戻るのでしょうね。一貴族として、王族たるナタリアを補佐しながら、何だかんだと上手くやっていくと思いますよ」 「……そうで、なければ?」 「―――――……憶測でものをいうのは好きではないのですが……そうですね、ルークは、もしかしたらこの世界を形作る全ての、礎となるのかも知れません」 お伽噺のような幸いばかりの結末など、到底望むべくもない。そう知ってしまったのは、一体いつ頃だっただろうか。 喜びも哀しみも、世界には等しく満ちている。それでも仮に奇跡というものが許されるのなら、ほんの僅かでもいい、叶うようにと願わずにはいられないのだ。 「それこそ……お伽噺のようですね」 考えてみれば、童話の本当の結末は案外不幸なものなのかも知れない。可哀想な娘が、王子様に見初められ、結婚を申し込まれる。そうして国民に祝福されながら、彼らは共に、新たな人生を歩みだす。 いつだって、お話はそこで終わり。 お姫様は、王子様と幸せに暮らしました。 「“フェアリーテール”」 「え?」 「妖精は、人々に恵みと災いを等しくもたらすそうです。それなのに、一般に“フェアリーテール”と呼ばれるものは、最後には幸せばかりがもたらされている」 「……それが、どうかしましたか?」 「もたらされなかった災いは、一体何処へ行ったのでしょうね?」 不思議だと思いませんか、と。ジェイドは笑ってそう言うと、そっとティアの髪を一房手に取った。さらさらと零れ落ちる細い髪。斜めに流された長い前髪が、彼女の右目を半ば覆い隠してしまっているのが残念だった。 「だから、あまり好きではなかったんです。夢を壊すようですが、彼らの幸福の裏には、必ず誰かの不幸があった。そう思えてならなかったのです」 そこまで言われて、ようやくティアはジェイドの言葉を理解した。迷いを見透かされていたのだ。これまでに連なる未来を、未だに選びきれていなかったことを。酷く遠回しな言い方ではあったが、率直に言われたとしたら自分は間違いなく否定を返しただろう。その迷いが周囲に与える影響にも気付かず、きっと、ぎりぎりまで自分の心に問い続けただろう。 それでは駄目なのだ。本当の終わりの前には、もう、全てに折り合いをつけておかなければならないのだ。 「……全てにとって、優しい結末なんてないんですね」 「そう言い切るのも早計かとは思いますが……或いはそうかも知れませんね」 本当は、求めてやまないのだ。全てにとって優しい未来、失われるもののない未来。けれど、喪失がその礎であるというのなら、果たしてそこにどれだけの価値があるというのか。 これまでに失われた数多の願い。これから降り積もる数多の希望。 現実は、童話の終わりからもまだ続いていくのだ。 「……それでも、私は信じてみたいんです」 ティアの細い指先が、いとおしむように古びた本の表紙を撫でる。幼い日の幻想が、形を変えて、今この瞬間にも息づいている気がした。 「続きは、私たちの手で作ればいい。たとえ童話の終わりが最悪でも、本当の結末のときが優しくあってくれたらいい。……我侭でしょうか?」 「いいえ。あなたらしい願いだと思いますよ、ティア」 「大佐は、何を願うんですか?」 「おや、言ったでしょう? 私は童話が好きではないんですよ」 言いながら、ジェイドはそっとティアの頬に手を滑らせ、優しくその額に口接ける。 約束された幸福な未来などここにはないが、それでも、十分にこの瞬間は幸せだ、と思った。 (多重幻想//アンソロ投稿作品) その昔参加させて頂いたジェイドノーマルカップリングアンソロの投稿作品。ジェイティア。 縦書きの活字になることを想定して書いているので、改行のさせ方がちょっと違いますかね。 音の感じとかがかなり気に入っていて、珍しく書きたいことが描けて満足です。 |