どうか、どうか。 そんな未来が訪れませんように。 さして多くはない本棚の間、古い本特有の匂いと埃っぽさの中を歩く。 色とりどりの背表紙を目で追えば、古いからか扱いが悪いからかは定かでないがタイトルの判別出来ないものも少なくない。 思わずそれらに手を伸ばしてみたい衝動に駆られてはそれを思い留まる事を繰り返し、結局一冊も手に取る事もないままマオはぐるりと本棚を一周し終えた。 ミナールの役場二階の図書館スペースにいる人は階下のそれに比べれば随分少なく、まるで一つの別世界のように感じられた。 「…ヴェイグ、本とか読むんだね」 「あぁ…嫌いではないな」 「へぇー、何か意外なんですけど」 ぐるりと回った本棚の、その始点であり終点である場所にはヴェイグが棚に背を預けて立っている。 問いかけに対しても上げられる事のない視線は手の中の本に落とされ、細かな瞬きを繰り返してはリズミカルに文字を追っていく。 ペラペラと割とハイペースにめくられるページには小さな文字が綴られており、暫くヴェイグの傍らでそれを眺めていたマオはけれど、すぐにつまらなさそうに目を逸らした。 「ヴェイグが本好きなんて意外ー」 「…お前は余り好きではなさそうだな」 「なんで?」 「顔にそう書いてある」 相変わらず顔を上げずにそう言うヴェイグに、見てないじゃん、とマオは悪態をつく。 けれどマオが本を余り読まないのは事実で、好きか嫌いかの二択で問われたら間違いなく後者だろう。 王の盾にいた頃はユージーンに付き合って日がな一日図書室にいた事もあったが、その時に読んだであろう数少ない本の内容はおろか、タイトルさえもろくに思い出せない。 よくよく考えてみれば最後まで読みきった本があったかさえも怪しく、あったとしてもそれが何だったかなんて覚えていようはずもないけれど。 そんな事を考えながら再びヴェイグの方を見やれば、その手の中ではペラリとまた一枚ページがめくられた。 「ヴェイグは、どんな本読むの?」 「物語が多いが…あれば何でも読むな。伝記や歴史書なんかも嫌いじゃない」 「ふーん」 「クレアの方が本は好きだったから、俺はそれを借りて読む事が多かったがな」 「…ふーん」 一度目よりいささか不機嫌に返事をしながら、マオは丁度顔の横にあった本を手に取った。 表紙は群青より少し明るい青色で、その中に流麗な銀のタイトル文字が躍る。 やや厚めのその本をどうにか支え持ち、真ん中辺りから開いて適当に単語を拾っていく。 古い本なのか小難しい単語や言い回しが多くなかなか内容が掴めないながらも、割り合い簡単な台詞部分から推察するにそれは恋愛小説らしい事が窺えた。 ペラペラと見るともなしにどんどんページをめくる。 そうして最後まで行き着くと、今度は終わりから始めに向かってまたそれを繰り返した。 「…その本…」 突如降ってきた声に驚いてマオは反射的に本を閉じた。 しかし声をかけた当のヴェイグは気にした様子もなく、マオの手の中の本をまじまじと眺める。 「…どうしたの? ヴェイグ」 「いや…この本、以前読んだ事があったような気がするんだが」 「この本…って、コレ、恋愛小説だよ?」 「あぁ、確かそのはずだ」 本当に? と半信半疑よりもやや疑いの方が強い問いを投げかけながら本をヴェイグに手渡す。 入れ替わりにヴェイグに渡された本を胸に抱え、青い表紙をめくる長い指をじっと見つめる。 「間違いない。大分前に、クレアに薦められて読んだ事がある」 「……そう、なんだ…」 力なく呟いて、マオは俯き腕の中の本をぎゅっと強く抱え込んだ。 さっき少しだけ見た本の内容。 幼い頃から隣家に暮らし、兄妹同然に育った男女が最終的に恋人となり、夫婦となるというストーリー。 彼らはずっと近すぎる所にいたが故に想いに気付く事はなかったが、男が長い旅に出た事によって初めて、互いに愛し合っていた事に気付くという。 (…なんか、まるで) ヴェイグとクレアのようだ、と思った。 ヴェイグはどうか知らないが、クレアがヴェイグの事を兄妹のそれとは違った目で見ている事は傍目にも明らかで。 一体、彼女はどういうつもりでヴェイグにこの本を薦めたのだろう。 一体、ヴェイグはどういうつもりで彼女に薦められたこの本を読んだのだろう。 そう考えると、妙に胸が痛んだ。 「どう、思った?」 「…」 「クレアさんに借りたこの本、読んで、どう思った?」 我ながら女々しい問いに苦笑する。 当然ながらヴェイグがこの本を読んだのは自分と出会う前で、それならばその時の思いなど聞いたって自分の入り込む余地などないのに。 かたん、と頭の上で音がした。 ついで抱え込んだ本を引き抜くように奪われ、再び音がした方を見上げればヴェイグの目とかち合った。 「クレアは妹だ。俺にとって、あいつはそれ以上でも以下でもない」 マオから奪い取った本を棚にしまいながら、本当に“ただそれだけ”という風にヴェイグは言う。 見ればその手の中に先ほどの恋愛小説の本はなく、成る程一度目の音はそれを棚に返した音だったのかと妙に冷静に思った。 それはマオの不安に気付いての言葉かどうかは定かではない。 けれど、不思議とそれでも構わないような気がした。 旅のさなか、何度か聞いたスールズでの生活の話の中でもクレアはヴェイグにとって“妹”で、それ故守りたい守るべき存在なのだと知った。 だから、この時も、きっと。 「以前この本を読み終えてクレアに返した時、あいつはお前と同じ質問をしてきた」 「…何て、答えたの?」 「“悪くなかった。また何か面白そうな本があったら教えてくれ”」 「……」 「そうしたら、あいつは何も言わずに微笑って頷いただけだったな」 そう言うヴェイグの声は過去を懐かしむといった類のそれではなく、ただ事実をありのままに述べているだけといった感じに近い。 恐らくヴェイグにとってそれはとうに過ぎた過去の話。 嘘も虚構も、それ以上もそれ以下もないただの過去の話。 「ヴェイグって…結構酷い、よね」 「何がだ?」 「…そういうトコロがだよ」 本を薦めたクレアの精一杯の想いに、ヴェイグはこれっぽっちも気付いていない。 元々色恋に関しては疎そうな感じではあるが、それにしたってあの答えはないだろう、と思う。 本来ならここは“よかった”と思うべき所なのだろうが、マオにしてみれば安堵を通り越していっそクレアが不憫だと思った。 「…でも、ボクはそんなヴェイグが最高に好きだよ?」 そっと手を握って、にっこりと笑う。 一瞬面食らったようになったヴェイグも、僅かに表情を緩ませてそっとその手を握り返した。 (虚構未来) 天然なヴェイグと不安になるマオと報われないクレアが書きたかった…訳ではない、はず。 …その実、ヴェイグはこれぐらい鈍いといいと思う。 |