「お前は、さ、」
 苦し紛れに投げた言葉は、やはり何一つ続くことなく、あいまいなまま沈黙の間に埋もれた。沈黙は平気なほうだけれど、今のこの、だんだんと輪郭がぼやけていくような、気配が空気に溶けていくような、ゆるやかな消滅に似た沈黙は苦手だ。けれど、この感覚は沈黙の合間に限ったことではない。誰といても、どこにいても、何をしていても、ふと気付くと、それはさまざまな形をして俺の傍に寄り添っている。
 ある人はそれを影だと言い、ある人はそれを霊だと言い、ある人はそれを死だと言った。別に謎掛けをしているつもりはなかったのだけれど、“死”というのは何となく近いような気がした。
「話しかけたまま黙るなよ」
「沈黙は苦手?」
「そうでもないが、好きでもない。特にアレだ、誰かといるときの意味もない沈黙な。アレ、嫌い」
「…なんで?」
「孤独なんだって思い知るから」
 孤独、と言った男の顔は、けれどなぜか笑顔だった。孤独。孤独なんて、俺は知りたくない。
「…淋しがり?」
「そういうんじゃなくて。ほら、よく言うだろ? “人間は、生まれるときも死ぬときもひとりだ”って」
「聞いたことない」
 聞きたくない、と言いそうになるのを、すんでのところで押し留めた。孤独。そう言ったこの男の声が、表情が、離れない。
 そうか、と思った。けれどやっぱり知りたくなかった、と思った。彼を構築するたくさんの要素のうち、唯一絶対に属するものをひとつ知った。孤独。それが、目の前の男を彼たらしめているもののひとつだ。
「孤独は、もしかしたら一番近いところにいる。だから淋しくない」
「詭弁っぽいな、それ」
「まァなー。けど、そういうもんだ」
「……」
 沈黙は、孤独を引き寄せるのだろうか。もしそうなのだとしたら、これまでずっと俺の傍に寄り添っていたのは孤独だったのだろうか。孤独、と、この男は笑って言った。俺はそんな風にはきっとなれない。
「そういえば……何か、言いたいことがあったんじゃないの?」
「……もう忘れた」
「…そっか」
 あからさまな嘘を、この男はひどく寛大に許す。いつだってそうだ。俺の本音を見抜いた上で、それをひた隠しにしようとする俺の悪あがきに、気付かないふりをする。
「……」
「……」
「…孤独、で、あることは、怖いことでは、ないよ」
「……」
 そんなのはお前だけだ、と、言ってやりたかったけれど、声が出なかった。
 これまでさして気にならなかったはずの沈黙が、ひどく重くのしかかってくるような気がした。まるですべてを飲み込むような、すべてを奪い尽くすような。ゆるやかな消滅なんて甘いものでなく、きっとこの先にあるのは冷たい孤独だ。いっそ消えてしまったほうがいいのかも知れない。そのほうが、きっと哀しくない。
「…泣きそう、な」
「誰のせいだ」
「俺のせい。むしろ、お前が優しすぎるせい」
「…別に、お前のためとかじゃないし」
「知ってるよ」
 この男はひどくずるい。本音を見せないのはお互い様なのに、それを不満に思う俺とは違って、自分にとって都合のよいところだけを拾い上げて真実にする術を知っている。嘘も本当も、この男に対しては正しく意味を成さない。それは俺にとってひどい安堵で、同時に多分、ひどい恐怖だ。
 息苦しさに耐えかねて細い息を吐く。本当に泣いたら、この男はどんな顔をするだろうか。
「なんで、笑ってそんなこと言えんの」
「そんなこと知ってどうするの?」
「どうもしない」
「じゃあ教えない」
 笑って、そんなことを言う。この男は本当にずるい。
 孤独なんてものはきっと、気付かないふりをしていれば何ももたらさず、何も奪わず過ぎていくひとつの錯覚だ。けれど、俺はそれを知ってしまった。知らないほうが幸せなことというのはきっと世の中にごまんとあって、けれど、いつまでも無知でいることも許されないのだとしたら、この世界はいっそ笑えるほどに理不尽だ。
 一体、いつまで俺はここで足踏みしていられるのだろう。今でこそ傍らにいることが許されているけれど、この男の言う孤独が本当なら、いつか望まない終わりを見るのだろうか。
(…少し、わかった。こいつはきっと、望んでるんだ)
 孤独に親しむことは、きっと簡単なことではない。けれど、一度寄り添うことを許せば、それはおそらく、何よりも近しい存在としてあってくれるのだろう。この男はそれを望んでいる。孤独と近しく傍にある、孤独な存在としての未来を。
「…知りたくない」
「……そう」
 知らないほうがいいよ、と。そう言った男は、俺の知らない表情をしていた。






(310.静かの海)
solitary stillness
(2008/04/14〜2009/09/27)




いまいち何とも…胸を張ってオリジナルと言えない(苦笑)
きっと、孤独でない人なんていなくて、ただ、いかにそうと気づかずにいられるかという命題。そしてそのひとつの回答。
孤独と知っていてそこに甘んじることも、これまで知らなかったものを知ることも、きっと、同じくらい淋しいのだろうな、と。そういうお話です。